FC2ブログ

ベーカリーアドバイザーの部屋

パン作りのお悩み解決、超わかりやすくに挑戦しています。

Top Page › 管理人のひとりごと › 人間って本来は優しいの??それともおろかなの??
2019-07-14 (Sun)  07:45

人間って本来は優しいの??それともおろかなの??

人間関係って本当に難しい・・・

どうしてこうも意見の違う人、人生観の違う人、価値観の違う人がいるのだろう・・・

同じ人間なんだから、もう少し近い考え方の人同士がいてもおかしくないはずなのに、なぜかみ~~~んな違う。

家族でも違えば職場でも違う、そして何より国同士でも違う訳で、毎日のように対立報道が流れてくる。

そもそも、同じ地球上に住んでいながら、なぜか自国を守るために武器を揃え、それがないと防衛できないと言う・・・おかしな話だ。

なぜ核が、空母が、戦闘機が必要なんだろう。

仮に地球上に神と言う人が一人だけいて、その人が地球の法を作り、すべての人が争いは素手のみで行うという決まりでもできれば、この世から軍事などと言う言葉はなくなり、もっと自由に子供を産んで育てる環境を作ることができると思う。

世界中からあらゆる軍事品がなくなり、この世から戦争がなくなったとしても、大陸の面積や資源などにはおのずと限界がある。

争わなくても人間が生きていくためには考えなければならない問題は他にいくらでもあるはずなのに、その重要なことはそっちのけで常に国同士で何かを競い、そして争っている。

人権だ、平等だという言葉はあるが、片や大豪邸を建てて優雅に暮らしている人もいれば、安全すら確保できずに生きることすら保障されないような人々もいる。

皆そのことは報道などで知ってはいるが、正直他人事だし対岸の火事でしかない。

どうして人間と言うのは争いをやめることができないのだろう・・・

どうして人間と言うのは自分のことしか考えないのだろう・・・

ゆずる、分け与える、共に生きる、手を差し伸べる、それが人間の本来持つべき感情なのではなかったのか・・・

そう思いたいところだが、現実には人間は殺戮の歴史をひたすら歩んできた。

自分、家族、そして自国民を守るため、繁栄のためとかなんとか言いながらも、結局は人のものを奪って殺して手に入れてきただけだ。

共に生きるなんてことは絵空事で、人間はこの世に存在してから今に至るまで、奪い合いの歴史を繰り返してきた。

だからそもそもお隣さんと分かり合うとか、助け合うと言う方が人間らしくない行動なのかもしれないとさえ考えてしまう。

それが本来の人間で、傲慢とかエゴの塊でしかない、自己中心的な生き物なんだと思えば、日ごろの人間関係も納得できないこともない。

がしかし、助け合いの精神というのも間違いなく存在し、自分のことを放っても、すぐさま他人を助けに行く人達も確かにいる。

そういう人達が各国の首脳にでもなれば、もしかしたら少しは争いがへるような気もするのだが、なぜかそうはならない。

議会がそういう人達だけで構成されれば、どれだけの幸多き法案が作られるかと期待できるが、なぜかそうはならない。

なぜなんだろう・・・

先日久しぶりに涙が出るほど悲しい報道を目にした。

目の不自由な方が歩道を歩いているところに、ながらスマホをしたサラリーマン風の男がぶつかってしまったというもので、そこまでなら日常にある出来事だと思うのだが、この男のその後の行動がすごい。

「目が見えないくせに一人で歩いてんじゃねーよ!!」

そう言ってぶつかった相手の足を蹴って行ってしまったというのだ。

その後に通りかけた数人の方が助けてくれたそうだが、私はこのニュースを見て涙が出て止まらなかった。

なぜだかは解らないが、日ごろから報道されているいじめの問題や、虐待の問題が一気に脳裏を駆け巡ったからだ。

いじめも虐待も、自分よりも弱いと思える相手に対して行う卑劣極まりない行為だ。

間違っても自分よりも強いと思える相手には行わない。

つまり、しっかりと判断したうえで行う行為であり、カッとなってしまったというような類のものとは訳が違う、人間として最も下級な非人道的行為だ。

サラリーマンであるということは、社会人として日ごろから会社の同僚や上司と共に仕事をしているはずだ。

このような行動をとる人に、家族とか友人はいるのだろうかと考えてしまう。

もしかしたらカッときてしまっただけなのかもしれない。

いや、そうであってほしいと願いたい。

対等な人どうしが争うならまだしも、無抵抗の人に対して攻撃するというのは、まるで赤ちゃんを足蹴にしていることと何の違いがあろうか。

虐待を受けている小さな子供の悲しみを見ているような気がして、思わず「やめてくれー」と叫びたい気持ちになった。

弱い人、何かに不自由な人を見るにつけ、なにかと冷たい目線で見てしまう人が多いことは仕方がないかもしれない。

パラリンピックに出られるような人達ならいざ知らず、身体に不自由さを持つ方々というのは、それだけで、ただ毎日を生きていくだけでも健常者の生活レベルの様な訳にはいかない。

我々が日常においてごくごく当たり前のように行えること、努力などしなくても、とくに訓練をおこなわずとも、当たり前にできる「見る・聞く・話す・歩く・つかむ」という行為。

目が見えるか見えないか、耳が聞こえるか聞こえないか、話せるか話せないか、両手があるか片手しかないか、両足があるか片足か、これらのたった一つでも欠けていたとしたら、それはそれは不自由極まりないし、その不自由さをどこにぶつければよいのか、なぜ自分はこんな体なのか・・・もしも私がそうだったらきっと気が狂ってしまうほど悩むと思う。

手が不自由でかゆいところがあったらどうするんだろう・・・

歯磨きは?? トイレは?? 食事は??・・・

全く耳が聞こえなくなってしまったら、音楽も家族の声も恋人の声も、そして波の音も風の音も鳥の声もすべてきこえなくなるんだな・・・

目が見えなくなってしまったら、目の前が常に真っ暗なのか???

色も映像も人の顔も、すべてなんにも見えなくなってしまうのか???

もし目と耳を同時に失うことになったとしたら・・・

そんなことをふと考えただけで、呼吸困難に陥るくらい苦しくなる。

しかし現実には、それでも一生懸命生きていらっしゃる方々が大勢いる。

生まれた時からすでに障がいを持って生まれた方もいれば、事故や病気、あるいは戦争被害などで不自由を余儀なくされた方もいることだろう。

馬鹿でも五体満足で暮らせているのにもかかわらず、ちょっとした人間関係で相も変わらず悩み苦しみ、そしていちいち落ち込んでいる自分の小ささ。

当たり前・・・が実はけして当たり前ではない、最高の幸運なのだと心から思う。

そしていつなんどき、これらの当たり前の幸福が失われるか解らない現実。

だからこそ毎日に感謝しながら、大切に生きなければならないと思う。

身体もそうだが、知的にもいわゆる ”ハンデ” を背負った人達がいる。

けして平等ではない、格差だらけの社会にあって、ハンデをかかえながら生きていくと言うことはとても大変だし、本人だけではなくもしかしたら家族も大変な思いで生きていることと思う。

だからと言って私に出来ることなど何もないが、せめて本当の意味での平等で接していきたい。

思いやりや心配りだけは自然と行動に出せる人間でありたい。

神とか仏とか、そういう大きな力はどうやらあまりあてにならない。

人に優しくできる、そういう人間一人ひとりの思いが、小さいかもしれないけど、弱き人に小さな幸せを与えることができるのではないかと改めて思う。

いや、人間は本来思いやりの動物なのだから・・・これからもそう信じていきたい。



関連記事

最終更新日 : 2019-07-14

Comment







管理者にだけ表示を許可