なんとこのひと月の間に、3人もの大切な人を、ある意味失う宣告を経験しました。
一人は亡き父の大親友であり、私にとっても父親同然の存在であったNさん82歳・・・
医師から余命宣告を受けたとの報告があったのがわずかに2週間前、この夏までは普通に元気で、一緒に釣りを楽しむ約束までしていました。
少しお腹が痛むということで病院に向かったNさんでしたが、なんと診断ではすでにがんの末期状態であり、手の施しようはないと言われ、このまま入院しても良し、自宅で過ごすも良しということで、本人の希望で自宅を選んだのでした。
がんはあらゆる個所に転移しており、初めの病巣がどこだったのかすら分からない状態であり、長くても2週間との余命宣告だったのです。
本人も家族もびっくり仰天で自宅に戻ったらしいのですが、その後は見る見る病状が悪化していき、亡くなる前々日までは一人で風呂にも入れましたし、トイレにも自分で行き、ただ、「体が思うように動かせないので情けない」とか、「みんなに心配かけて情けない」と、最後の最後まで周りを気遣うありさまでした。
私はその間5日ほど一緒に過ごさせていただきましたが、孫やらご近所の友人やらが代わるがわるに見舞いに訪れ、終始和やかな時間を過ごしているように見えました。
思えば昨年の今頃からなんとなく食欲が出ないとか、疲れやすくなったと奥様には語っていたようですが、私同様医者が嫌いで、めったなことでは病院へは行かない人だったそうです。
孫が大勢いる人だったのですが、その孫たちも皆手を握って離れないくらいおじいちゃんのことが大好きだったらしく、何をどうすればこんなに人に慕われるのかと、その人柄が惜しまれて仕方がありませんでした。
そんな中、「どうしてこんなになるまで放っておいたのか」 「もっと早期に発見できていれば治ったかもしれないのに」と奥様を非難する声も聞こえ、私は改めて残されてしまう人達の心の悲しみを見せつけられました。
私はこのように確信しています。
もしNさんが昨年病院にかかっていたとしたら、今頃は病院で手術と抗がん剤治療を行っていたはず。
すると、その日々はとても苦しく、そして好きなものは食べられず、好きな釣りは出来ず、家族は常に心配し、莫大なお金がかかり、見た目にも病弱になり、もしかしたらこの時期まで生きられていなかったかもしれない・・・・と。
同じ見舞いを受けるにしても、自宅で何の苦しみもなく笑いながら話ができる状態と、明らかに吐き気や頭痛や目まいや脱力感を伴った状態で受けるのとでは、全く違ってくるのではないか。
結果としては、複数に転移できるがんは間違いなく本物のがんであり、その時点で回復の可能性は極めて低いと考えると、亡くなる2週間前まで全く普段通りの生活ができ、最後には多くの人たちに別れを告げながらという死は、生活の質を考えた場合には、もっとも幸せな死に方であったと言えるのではないかと。
最後はまるで木が枯れていくかのように、眠るように息を引き取りました。
私が最も目指す死に方ですが、私にはあんなに見舞ってくれる人はきっといないな・・・
もう一人は親戚の中でも最も私たち家族がお世話になったT さん88歳なのですが、その人が先日胃がんの全摘出手術をおこなったのです。
家族にも私達にも何も相談することなくいきなりのことでした。
そのがんが本物なのか、偽物なのかは分かりませんが、胃をすべて取ってしまったという事実は変えることはもうできません。
親族の間では、「早くに手術ができて本当によかったな」という声や、「命に比べれば胃なんか安いものだよ」という励ましのつもりの言葉もありましたが、本人はすでに90歳を間近にした高齢者です。
もしも本物のがんであったならすでに転移しているはずですから、胃を取ってしまって好きなものを好きなように食べられない日々を過ごす分、そして手術後の後遺症に悩みながらの数年間がはたして本当に自分が望む人生の最後であったのか。
そして必ず転移したがんによって数年で亡くなるでしょう。
もし本当のがんでなかったとしたら、胃を取ってしまったこと、それによって弱っていく生活だけが待っていると言う現実。
病気になったら何が何でも治療するという考えをどうして捨てられないのでしょう。
かりに病巣をやっつけることが出来たとしても、治療も薬もその病巣だけに影響を与えることなどできません。
薬であれば全身に対して、手術であれば人体を切り、内臓をいじくるわけですから、その影響はどこにどうでるかはまるで博打、そうギャンブルみたいなものです。
ですから必ず同意書を求められるわけです。
なぜ自分の人体をかけた、まさに生死をかけた一大ギャンブルを選んでしまうのでしょうか。
ギャンブルを避ける、行わないでみるという選択肢はないのでしょうか。
本人は自分のため、そして家族のためだと思い、家族は本人に少しでも長く生きてほしいとの純粋なきもちから、結果としては確率よりもチャレンジへの道を選択することが多い現在。
Tさんはとても活発な人だったのですが、手術後はすっかり病弱になり、激やせして日々病院通いを欠かせなくなっているようです。
家族によればまるで別人のようだと語っていました。
もう一人は母の姉Tさん87歳。
昨年あたりから体調がすぐれないことが多かったらしく、医師には人工透析を進められていたのですが、私が強烈に反対して痛み止めで様子を見るようにしていたのですが、近くに住む息子夫婦の勧めにより数か月前から透析を開始したとの報告があったのです。
たまに痛みはあるものの、特に普通の生活をしてきたTさんだったのですが、透析を開始してすぐに体調が悪化し、今では外には出られないほど弱ってしまったそうです。
人工透析はここ数年でとんでもなく多くの患者数になっており、医療業界はその施設と機械をどんどん増やしているところです。
一度通ったら二度と辞めることは出来ない治療・・・そういえばある程度恐怖感は無いかもしれませんが、実際には透析によって体が強くなる訳でもなく、ましてや病気が快復していくわけでもなく、死ぬまで通って、そしてその後遺症によって確実に死に至るという大変恐ろしい治療と言う名の死の宣告なのです。
人は必ずいつかは死を迎えます。
何歳まで生きたかを大事に思う人、どう生きたかを大事に思う人と様々でしょう。
死にゆく人の、残された人への思いも人それぞれでしょうし、残された人の「少しでも長く生きてほしい」という思いも、一点の偽りもなくまさにそうでしょう。
だからこそ・・・・となって病気と闘ってしまうのかもしれませんね。
自分と家族で話し合って決めたこと・・・であったとしても、その苦しみは当人にしか分かりません。
死ぬほどの頭痛や歯痛やケガの痛みを経験した人ならわかると思うのですが、「この痛みが取れるのなら死んでもいい」そう思えるほど痛みと言うのは耐え難いものです。
その耐え難い痛みを、高齢になってどのみちそう長くはないはずの人に与えることになるかもしれない、そうけしかけてしまっていることになるのではないかと、考えることは果たして間違いでしょうか。
一日でも長く・・・なのではなく、できれば人生の最後を痛みのない穏やかな気持ちで過ごしたい、家族と最後の別れと感謝を示したいと考えるならば、あえて戦わないという選択肢もあるのではないかと思えてなりません。
先日、どうしても健康診断を受けてほしいと言われて、30年以上行っていなかったのですが、あえて行ってみました。
こんなことを仕事にしている人たちがいて、その機械や機材、そして医薬品を作っているという仕事がいかに多いか、正常値なる基本の数値があり、その数値に対してやや高ければ注意してできれば再検査、数値より明らかに高ければすぐにでも再検査、そんなアホでも分かるような分析によって正常か、予備軍か、病気かが判断され、たばこを何本吸うか、お酒は何合飲むか、運動をしているかの返答次第では生活指導を受けるように言われる。
あれほどどうでもいいものに多額のお金を支払い、しかしそれを受けたと言う証明がないと優良企業とはいえないというこの国のシステム。
そしてまじめな人はそのまま再検査をし、そして何かが見つかり、人体実験と言う名の手術の練習台になるのです。
どのみち日々老いに近ずいていくことだけは確か。
けがや事故という予測できない死がいつ訪れるかは誰にもわかりませんが、病気の場合は治療法を選べる、あるいは治療そのものを行わないことも選べるのだということを、多くの人に知ってもらいたいと思う今日この頃です。
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最終更新日 : 2019-11-09