
新しい年を迎えるに当たり、皆様におかれましてはどのような年となりそうでしょうか。
昨年度に見送りで先延ばしにした小麦価格が、この春からいったいどの程度上がってしまうのか、政府は何かしらのパン屋さんへの援助をしてくれるのか・・・
まだまだ続く値上げラッシュに、いよいよ国民一人一人が政治というものに無関心ではいられないような実感を持つ一年になるような気がしてなりません。
また、そうでなければ本当に我が国は発展途上国へと衰退してしまうでしょう。
そんな「世の中がなんとなく不景気なとき」あるいは「なんとなく先行きが不安なとき」というのは、誰しもがなにかにすがりたくなるのが世の常というものです。
きっかけは現職総理大臣の死ではありましたが、毎日のように報道されている宗教団体と金の問題、政治への関与の問題が取り沙汰されております。
いつでもそうなのですが、大抵はこの手の報道は芸能人絡みであったり、政治家絡みであったりするのですが、常日頃なら見向きもしない・・・というか何となく触れることがタブー視されている話題が、きっかけがあるとヮーっと広がって、まるで思い出したかのように騒ぎ立てることとなるわけです。
旧統一教会については、具体的なことは何も知りませんし知りたくもないのですが、そもそも合同結婚式などと称して党首が結婚相手を決めるなどということが行われている時点で「気持ち悪い」と思うのは私だけではないはずです。
食べるものの制限、崇拝するものの制限、思想や教義の制限などはどの宗教にでもあるものかもしれませんが、ごく一般的な人間生活を制約するような教えというのは、その時点でいかがわしいと言わざるを得ません。
そんな気持ちの悪い宗教団体であっても、確実に信者がいて、そして数十年にわたって存在していることは誠に不思議でなりませんが、報道にあるようにある程度の人は被害と呼べるような扱いをされてきていることは事実だとは思うのです。
反面で、それを政治利用してきた政治家も多かったことでしょう。
というか、政治家というのは選挙がありますから、大きな団体の支援を必要とするという点においては、それが宗教団体であれ会社組織であれ、重要な存在であることは間違いありませんよね。
応援してもらうために団体の会合に出席したり、ご祝儀を出したりなんてことは至極当然の振る舞いであり、法的にどうかは別として誰でもがそうするであろうことは想像できます。
しかし一旦加熱報道されてしまうと、過去にさかのぼって調べられ、ああだこうだと関係性を迫られ、挙げ句には議員生命まで奪われるというのは、これも今に始まったことではありませんが報道に殺される典型、視聴率のための餌にされたということになります。
「明日は我が身」だということを私達も常に考えながら行動しないと、いつ冤罪で逮捕されるかもわからない世界にいきていることに気づけないでしょう。
さて、旧統一教会の問題が報道されるようになって、宗教と政治の関係みたいなものが取り沙汰されるようになると、いつも必ず登場するのが創価学会と公明党の存在です。
唯一国政政党として与党に君臨し、しかもあからさまにバックに宗教団体がついているにも関わらず、普段は話題にすら登らないでいる公明党。
宗教団体が政治にかかわることを禁じている我が国において、なぜこうも堂々と政治活動ができるのか、不思議といえば実に不思議なことではありますが、では逆に政府がそのことに目くじらを立てようとすると、政治が宗教に関与してはならないという法律によって袋叩きにあってしまうという、なんとも矛盾した法律解釈のもとに、常に「なあなあ」で今に至っているのがこの問題なのです。
私個人が当時創価学会員であったことは以前に触れました。
くわしくはこちらの記事を見て下さいね。
旧統一教会の報道が過熱するようになって、またしても公明党の存在が様々取り上げられるようになっていますが、確かに私個人はその存在価値を認めませんが、そもそも他の宗教団体とはすべてが違います。
ご自分で調べて見るとよく分かると思いますが、創価学会の教義のなかには一般的な社会生活を送ることにおいて、何の制約もありません。
むしろ、会社組織の中で、そして市民生活の場において中心的な存在となれるように努力するよう指導しています。
私の家族や知り合いにも創価学会員はたくさんいますが、献金の多さに困っているというような、そんなくだらない問題に頭を悩ませている人など一人もいません。
たしかに私は当時、選挙の度に公明党の支持を友人に頼むことが嫌で嫌で仕方がありませんでした。
しかし組織の考え方として、国を動かしているのは政治ですので、政治の世界に創価学会の思想を反映させるには、政党を作って政界にも進出することが必要であると考えることは理にかなっています。
そしてそんな理念を実現させて政党として60年以上も存続し続けているという事実は、この政党の理念は国を滅ぼすようなものではないということを実証しているのではないでしょうか。
唯一つだけ言えることは、もしも名誉会長の池田大作が血迷ってしまうか、あるいは長年にわたって信者を騙してきたエセ宗教人であったとして、いきなり革命を起こすように全信者に触れ込んだとしたら、とりあえず一時はパニックを起こすことがあるかもしれません。
しかし当時それは私も幹部である母に訪ねたことがあるのですが、
「もし池田大作が戦争をせよと言ったらどうするの」と聞くと、母はこう言いました。
「先生がもしそう言ったとしても、それは先生も人だから間違えることもあるでしょう」
「しかし私たちには世界平和という使命があり、日蓮大聖人の教えがあるのだから戦争はしません」
こう言いました。
当時学会の中にも悪いことを企み、実行した者が多数いましたが、それによって組織がぐらつくようなことはないのだと母は自信たっぷりに言っていました。
それだけは、組織を抜けた私にも十分理解できます。
ありとあらゆる宗教団体の中には、独りよがりの妄想者が教祖である団体もあることでしょう。
かつてオームが政界進出を試みましたが、当然ながら叶うはずもなく、もしかなっていたとしたらこの国はどうなっていたかを思うと、映画やドラマとしては見てみたい気もします。
また、一部報道では創価学会を超える会員数がいるとして幸福の科学を上げていますが、この団体も政界進出を試みて選挙活動を盛んに行っていますが、なかなか実現できないようです。
日本においては、宗教というものの見方には非常に慎重であり、お参りをするということは行事としては行うものの、日々その教義を勉強し、そして何かしらの修行のようなものを行おうとする人は少ないと思います。
そんな中で唯一政治政党をもち、そして現存し続けているということは、少なくとも危険分子集団ではないことだけは確かだし、その教義も人を不幸に導くようなものではないことだけは確かでしょう。
どうにもこうにも人生につまづき、何かに頼りたいのだとしたら、それは創価学会の集まりに一度行ってみてはいかがでしょう。
創価学会員生活24年の私から言えるのは、この団体は間違っても国を滅ぼすような団体ではないということです。
ただし、あくまで私個人の考え方としてですが、所詮すべての宗教や信仰によって人生を左右させるような力は無いと思っています。
それは信仰によって目標ができ、日々なにかに向かって頑張ることで、自分自身が輝いていくのであり、何もしないでいくら題目を唱えてもお祈りをしても、何も変わらないことだけは確かです。
一年に一度、あるいは何か困り事があるときにだけお祈りを・・・そんなものに何の効果もありませんが、経済が回るという意味では仏閣関係者の懐が温まり、近隣の店が繁盛し、人の移動に伴って様々な経済活動が潤うという意味では大切なことなのかもしれません。
「お祈りに何の意味があるのか」を真剣に考えて、意味があると思っている人もたくさんいらっしゃると思いますし、意味があるかないかではなく、一つの行事として縁起ものとして行っているだけだという人もいることでしょう。
人によって様々な考え方があり、捉え方や見方を変えるだけで、自分にとって本当に必要なものなのかどうかが見えるものです。
一時の報道に踊らされてネットに書き込みをしたり、信仰者を悪の目で見るようなことだけは止めて、とりあえずその報道は真実なのかを自分自身で調べてから批判するようにするべきです。
創価学会員時代、私は組織の中で親友のような人を見つけることができませんでした。
尊敬できるような人、相談に乗ってくれるような人や幹部はたくさんいましたが、とことん向き合ってくれているかといえば、なんとなく仕事で行っているような気持ちにさせられることが多く、思えば修行の一環としてこの人も相談に乗ってくれているのだなと考えてしまうと、結局皆自分の幸せのためにやっているだけなのでは・・・そう考えてしまい、人間関係と宗教活動を混同している自分がいました。
学会員なのに会合にも参加しない、勤行や題目もあげない(学会のお勤め)、それでいて退会もしないという中途半端な人がたくさんいて、その人達を私は軽蔑していました。
しかし幹部の中には、退会しないことが重要なのであり、会合には出席しなくても構わないと公然と言い放つ人もいて、そんな人も軽蔑していました。
「だったら何のための信仰なのだ」と・・・
どんなことにも白黒つけたがる私の思考回路では、中途半端なことが許せず理解もできないのでした。
私は退会して長い年月が過ぎましたが、今でも母や妹は熱心に毎日毎日活動を続けています。
本人たちは至って幸せそうですから、おそらくはインチキ集団でもなく、間違った思想でもなく、多くの人を導いている団体なのかもしれません。
そしてそんな中にも、必ず危険分子は存在していると思いますし、人間の欲深さを考えるとそれは宗教団体にだけ言えることではないでしょう。
どこまでいっても正義の人だけの集まりもないでしょうし、死ぬまで人間関係のわずらわしさと付き合っていかなければならない、そして自分自身の欲望との葛藤もあり、考えても考えても答えは絞れないのが人生なのかもしれませんね。
・・・なんて書いていると暗くなってきますが、今日も一日、なにか一つでも人の役に立てるような行動をと自分に言い聞かせ、行ってきます・・・
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最終更新日 : 2023-01-08